2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震で、亡くなられた方々にお悔やみを申し上げるとともに、被災された皆様には謹んでお見舞い申し上げます。
被災地の方々におかれましては、一日も早い復旧がなされますことをお祈りいたしますとともに、私もジャーナリストとしてできる限りの支援や調査報道を行って参ります。
私は予備自衛官として、陸上自衛隊の朝霞駐屯地で訓練召集中に被災しました。
予備自衛官とは、元自衛官や一般市民が、年に5日ほどの召集訓練を受け、有事の後方支援にあたるという制度です。
五年ほど前に始まりました。私は2005年に志願し、今回は総勢80名ほどの訓練に参加していました。
地震の日は、5日間の訓練の初日の休憩時間で、二段ベッドの並ぶ女子自衛官の居室にいました。
築30年ほどの建物の八階でがたがたと大きく横揺れがし、長く続きました。
そのとき、私は部屋内に初対面の同僚と二人でいました。
私はとっさに隊員全員に支給されていたヘルメットをかぶり、同僚はドアを開けました。
揺れが収まってから、集合場所の二階の講堂に階段で降りました。
地震で少し遅れたものの、3時10分から「精神教育」の講義が始まりました。中隊長が講師で、地震にちょっと触れたほかは朝鮮半島情勢がテーマでした。
4時10分に講義が終わると、連絡係の上官にこういわれました。
「地震で第三警戒体勢に入った。緊急災害派遣の準備のため、予備自衛官の招集訓練は中止」
このまま災害派遣に行くことも覚悟してたのにがっかりしました。
交通が止まっているので、半数は徒歩やバイクで帰りましたが半数は泊まることになりました。ベッドと食事はあります。
ただし、営内でちょっとしたデマがありました。
夕食はいつも5時半と決まっており、女性隊員同士で隊列を組んで食堂に向かうと、途中で見知らぬ男性隊員が「地震のため食堂が開く時間が一時間遅くなった。
自分は食べられなくて帰ってきた」
それを聞いて部屋に戻りました。
6時半に食堂に行くと、災害特別食になっていました。献立表では鶏の赤ワイン煮のはずが、パックご飯と牛丼に(写真)
そして人も少ないので不思議に思っていると、食堂のおじさんが寄ってきて
「こんなご飯になったのは、あなたたちが遅く来たからだよ。5時半に来てれば通常メニューだ。予備自衛官の間でデマが流れてるらしくて、災害派件の準備で働く隊員向けに閉館を一時間遅らせると言ったのに、開館が遅れたという話になっているようだな」
停電はありませんでしたが、風呂も遅く行ったせいか追い炊きをしてもらえず、水風呂でした。駐屯地内の隊員クラブ(バー)、売店などは臨時休業になり、夜は居室でテレビ報道を見て親族の安否を確認しながら過ごしました。家にいる父の無事は確認できたのですが、母とは連絡がとれません。関西にいる弟が心配して連絡してきました。
朝4時半に大きな揺れで目覚めた後、6時半に起床ラッパが鳴り起きました。朝食は7時にコンビニのおにぎりが無事届きました。窓のでは大型ヘリコプターが離着陸しています。8時に東武東上線の運行を確認して、輸送トラックで最寄の和光市駅まで送ってもらいました。
トラックで送ってくれた現役自衛官に聞いた話では、
「朝霞からかなりの数がすでに派遣されて出ていった。自分たちも派遣されるだろう」
「自分は阪神淡路に派遣された。今回は被災地(沿岸)の範囲が広いのでもっと長期化するだろう。そのうちあなたたち予備自衛官にも声がかかるだろう」
自衛隊はテントやトイレをももっていくし食事もつくれる、自己完結してるから重宝されるんだ」
元自衛官だった予備自衛官の仲間は
「自分は中越地震のときに派遣が決まり、二週間風呂なしと言われ水のいらないシャンプーなどを自腹で買い込んだ」
元航空自衛隊員だった仲間は当時の同僚に電話をしては「みんな出ない。船で三陸沖に向かってると思う」と言ってました。
(隊員にブログでどこまでよいか聞いた上、よいと言われた範囲で書きました)